大判例

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東京高等裁判所 昭和61年(ネ)1377号 判決 1987年3月31日

控訴人

サンビー株式会社

右代表者代表取締役

山本孝重

右訴訟代理人弁護士

田中登

被控訴人

小松惠子

被控訴人

小松恒志

被控訴人

小松貞康

右両名法定代理人親権者母

小松惠子

被控訴人

小松要貞

被控訴人

小松タカ

右五名訴訟代理人弁護士

伊達利知

溝呂木商太郎

伊達昭

澤田三知夫

奥山剛

主文

原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。

右部分に係る被控訴人らの請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張は、当審における主張として次のとおり述べるほか原判決事実摘示のとおりであり(ただし、原判決九枚目表二行目の「てん補がなかつたもの」を「てん補がなかつたこと」に改める。)、証拠は、記録中の原審及び当審における証拠関係目録記載のとおりであるから、これらを引用する。

(当審における控訴人の主張)

本件は、一見明白な狂人風の男に自動車を停止させられ暴行を受けそうになつた運転者が、これを振りほどこうとして自動車を進行させたところ、男が路上に仰向けに倒れて動かなくなつたため、一一〇番通報をすべく自動車を停止させ離車したものであつて、このような状況の下で右男に泥棒運転されることになつてしまつたからといつて、右運転者に不法行為責任を負わせることはできないというべきである。すなわち、(1)当時世間を騒がせた「通り魔」が続発して新聞、テレビ等で大々的に報じられており、このような社会的背景を考慮すれば、運転者が突然の異常者の出現に畏怖狼狽してエンジンキーを抜くことを忘れたとしても何ら非難に値しないこと、(2)道路向かい側のごく近い商店で電話を借りるためであるから、離車時間としてはごく短時間が予想されたこと、(3)停車地点から男の転倒地点までは六〇乃至七〇メートルの距離があり、この程度の距離があれば、男がまた起き上がり停止した自動車に乗り込んで走り去るというようなことは予見できないこと、(4)付近はほとんど人通りのない農村地帯であり、しかも昼間であつて、第三者が本件自動車を窃取する可能性は考えられないこと、(5)たまたま本件では一一〇番通報に時間がかかつたうえ、動かないはずの男が起き上がり、商店付近で暴れ出し、商店主が入口の戸に施錠したため、男が本件自動車を乗り逃げするのを阻止しようとしたが間に合わなかつたものであつて、このような事態は通常予想し難い異常な成り行きであること、(6)本件自動車のエンジンキーを抜くためには、キーの近くにある解除ボタンを押しつつキーを捻る必要があり、その作業は必ずしも容易ではないこと、等の事実に照せば、運転者酒谷に過失はなく、仮に過失があつたとしても過失と本件事故との間に相当因果関係はないというべきである。

(控訴人の主張に対する被控訴人の認否)

争う。本件は単なる泥棒運転の一態様とすべきではなく、目前で挙動不審の行為をしていた精神異常者が自己運転の車両のそばにいることを知りながら、エンジンキーを差し込んだまま車両を離れた結果、右異常者に乗り逃げされたのであるから、それによつて生じた本件事故につき右運転者が管理責任を問われるべきことは当然である。酒谷としては、施錠までは無理であつたとしても、エンジンキーを抜くことは充分にできたはずである。

理由

第一控訴人の本案前の主張に対する判断

当裁判所も、控訴人の本案前の主張は理由がないものと判断する。その理由は、この点に関する原判決理由中の説示(原判決九枚目表九行目から一〇枚目裏九行目まで)と同一である(ただし、同一〇枚目表一〇行目の「被害車両」を「加害車両」と改める。)から、これを引用する。

第二本案に対する判断

一本件事故の発生

請求原因1の事実は、加害車両の速度及び同車両がセンターラインを越えたとの点を除いて当事者間に争いがなく、右争いのない事実と<証拠>によれば、Bは、控訴人所有の本件加害車両を無免許で運転して、昭和五六年六月二五日午前一〇時二〇分ごろ、茨城県鹿島郡大野村大字大小志崎六七九番地の一先道路(国道五一号線)を鹿島町方面から大洗方面に向け時速約一〇〇キロメートルで進行中、前方車両を追い越すあたり、反対方向からの車両の有無等進路前方の交通状況を注視し、その安全を確認して進行すべき注意義務があるのにこれを怠り、漫然センターラインを越えて道路右側を進行した過失により、折から反対方向より進行してきた車両二台に自車を次々と接触させ、さらにその後方を進行してきた亡貞茂運転の被害車両の右前部に自車前部を衝突させ、よつて亡貞茂を翌二六日午前五時四一分、同郡鹿島町大字宮中一八三四番地小山病院において、脳挫傷等により死亡させたことが認められ、右認定の事実を覆すに足りる証拠はない。

二控訴人の責任原因

1  酒谷が控訴人の従業員であること、酒谷がBから本件加害車両を盗取されたことは当事者間に争いがないところ、右事実と<証拠>によれば、右車両盗取前後の状況は以下のとおりであることが認められる。

すなわち、控訴人の従業員である酒谷は、社用により、控訴人所有の普通貨物自動車(本件加害車両)を運転して、昭和五六年六月二五日午前一〇時一〇分ころ、茨城県鹿島郡大野村付近道路(国道五一号線)を鹿島町方面から大洗方面に向け進行中、同村大字荒野地内の荒野歩道橋下において、突然道路左脇から上下とも下着姿の男が現われ、進路前方に両手を挙げて立ちはだかつたため、驚いてその四、五メートル手前で急停車した。男は一見明白に狂人の風で、何かをわめきながら加害車両に近付き、ボンネットをたたき、さらにその上に上がつて来ようとする気配を示した。酒谷は車のフロントガラスを壊される危険を感じ、直ちに車を発進させ、ハンドルを右に切つて男をかわそうとしたが、男は車の左側ドアを開けようとし、さらに車体後部にしがみついてきた。このため酒谷は男を振りほどくべく車の速度を上げたところ、男は道路上に仰向けに倒れ、動かなくなつた。これを見た酒谷は、とつさにその男が大怪我をしたのではないかと思い、その男から六〇ないし七〇メートル位前方に進んだところで車を止め、エンジンを切り、エンジンキーは差し込んだまま車を離れて、前記歩道橋付近にある雑貨屋内田商店にかけ込み、同店の電話を借りて一一〇番通報し、救急車の手配を依頼するなどしていたところ、男はその間に起き上がり、今度は大洗方面から来る自動車の前に立ちはだかつてこれを止めようとするなどした後、近くにあつた棒切れを持つて暴れながら酒谷のいる内田商店に近付いて来た。そこで同店の者が店舗のサッシ戸に鍵をかけ警戒していると、男は加害車両が駐車しているのを見つけ、同車にかけ寄つた。これを見た酒谷は店の者に鍵を開けてもらい、男のあとを追つたが、間に合わず、男は加害車両に乗車して大洗方面に向け走り去つた。そして男はその約一〇分後に前記一の本件事故を惹起した。男はBで、右事故により自らも負傷し、病院に収容されたが、当時同人は精神分裂病に罹患しており、事故直後の病院での司法警察員の事情聴取の際にも事故を起したという認識はなく、何かにおびえている様子で、「仙台に逃げてお母さんに会いたい」などとわけの分からないことを口走つていた。

以上のとおり認められる。

2  右事実によれば、Bは酒谷が本件加害車両をエンジンキーを差し込んだまま駐車させておいたのを奇貨として、右車両を乗り捨てる意思でこれを盗取したものというべきであり、また、客観的にみて酒谷においてBが加害車両を運転するのを容認したのと同視しうるような状況が存したということもできないから、控訴人の加害車両に対する支配は右盗取の時点で排除され、本件事故当時においてはBのみに加害車両の運行支配と運行利益とが帰属していたものというべきである。したがつて、本件事故当時控訴人に加害車両の運行支配と運行利益とがあつたことを前提に、控訴人に運行供用者責任があるとする控訴人らの主張は採用することができない。

3  そこで、前認定の事実関係の下で控訴人について民法七一五条による損害賠償責任が生ずるかどうかを検討すべきことになるが、まず、その前提として、Bに加害車両の運転を可能ならしめたことについて酒谷に過失があつたか否かの点について判断を加える。

一般に、自動車の運転者が路上で自動車を離れるにあたつてはエンジンキーを抜くなどして第三者に無断で運転されることがないようにすべきことは、常識に属する事柄といえるであろうが、このような注意を欠いたことが右第三者の無断運転の結果生じた事故との関係で過失と評価されるのは、運転者が泥酔者、年少者等の事故を惹起し易い者によつて自動車が運転されるのを防止すべき注意義務を負うという意味においてであつて、自動車の盗取又は無断運転そのものを防止すべき義務を負うという意味においてではない。したがつて、右のように事故を惹起し易い者が当該自動車を無断で運転する危険が具体的に予見できるような状況の下では、自動車を離れるにあたつてエンジンキーを抜くなどの注意を払うことが特に強く要請され、たとえ短時間であつてもこれを行うことなく自動車を離れることは過失と評価されるべきであり、また、具体的に特にそのような危険が予想されない場合であつても、道路上に長時間エンジンキーをつけた自動車を放置したような場合には、いずれ前記のような事故を起こし易い者がこれを無断で運転する危険が大であるから、車を放置した者の過失を認める余地があるといえるであろうが、右のような危険が具体的に予見されない状況の下で短時間エンジンキーをつけたまま自動車を離れることをもつて直ちに前記のような意味での過失ある行為とすることはできない。これを本件について見ると、酒谷が加害車両を離れた際の周辺の状況からは前記のような危険が特に予想されたとはいえず、とりわけBについては、酒谷は路上に倒れたBが大怪我をしたものと思い、同人に加害車両を乗り逃げされるような事態を全く予想しえなかつたものであつて、かかる状況の下で酒谷が一刻も早く事故を警察に通報し、救急車の手配を依頼しようとしてエンジンキーを抜かずに一時自動車を離れたことをもつて通常人に要求される注意を欠いたものと評価することは、酷に失するといわなければならない。

したがつて、酒谷に被控訴人主張のような車両管理上の過失はなく、右過失があることを前提とする被控訴人の民法七一五条による損害賠償請求も理由がないことに帰する。

三以上によれば、被控訴人らの本訴各請求はいずれもこれを棄却すべきであるから、原判決中控訴人敗訴部分を取り消して右各請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官中島一郎 裁判官加茂紀久男 裁判官梶村太市)

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